8月12日から16日まで、佐渡の実家へ帰省した。
12日は16:00、新潟港発佐渡両津行のカーフェリーに乗るため、渋滞を予測して川越の家を9:30頃出発した。案の定、関越高速では、花園IC辺りで渋滞にはまりノロノロ運転となった。また、前橋IC付近でもノロノロ。それを過ぎたらまあまあ順調に流れに乗ることができたが、越後川口サーヒースエリアで休憩と食事をし、時計を見たら既に14:00を回っていた。あと50q位だったが、早々に出発をした。長岡IC付近でまたしても渋滞で時計とにらめっこでのやや焦り気味だったが、こればっかりはどうしようもない。何とか渋滞を脱出して佐渡汽船新潟港カーフェリー乗り場に着いたのは、15:30だった。すぐに乗船手続きをしたが車の積み込みが始まっていた。手続きを済ませ車に戻るとすぐに乗船するよう誘導されておけさ丸に乗った。
やはり、お盆ということもあって客室はギューギュー詰めであった。何とか3人の居場所を確保し、やっとホッとした気分になった。
船は2:30かけて佐渡両津港へ着岸したのは18:30であった。
そこから実家までは車で約1時間の距離で、実家に着いたのは19:30過ぎであった。
実家はすでに甥が継いでおり、私は伯父にあたる。
前日、姪夫婦もきていたが、12日の夕方には、甥の長女夫妻が子供を連れて実家に帰ってきた。
甥の長女夫妻にすれば、すでに私は大伯父にあたるし長女夫妻の子供にすれば大大伯父になる。
そして、私の息子にしても、歳はまだ17歳だが、甥の長女夫妻にとっては伯父にあたり、子供にすれば大伯父になってしまう。
何とも複雑な家系なのである。
その夜は、夜遅くまで皆が騒ぎながら祝杯をあげた。
13日は、私の運転で妻と息子を乗せて、佐渡の最南端の沢崎灯台や宿祢木(しゅくねぎ)の保存集落と千石船資料館を見学した。昼食は小木の港の土産物店兼食事処で食べて、早めに実家へ戻った。
その夕方には、甥の次女夫妻も来て、大家族となり、夜は大いに飲んだ。
14日、赤泊港から通称「角栄道路」を通り真野へ出た。そこで、11:00頃であったので、長浜荘という民宿兼食事処で、私と息子は刺身定食特上を頼み妻はエビフライ定食を食べた。佐渡では、まあまあ有名な海鮮食事処であったので、私たちが11:00丁度に店に入ったが、客はまばらだった。しかし、30分もしないうちに店内は満杯となった。
食事の後は、再び、車を走らせ、外海府と呼ばれる佐渡の北の海側へ連れて行った。大野亀や二つ亀という見晴らしの良いところで休憩をし、弾崎灯台という佐渡の最北端の灯台を超えて両津まで行き、妻と息子は土産を買うということで土産物店で色々買い込んできた。
実家に帰ったのは16:30頃であったので、まだ陽も高いということで、私たち家族だけで墓参りに行った。
15日、家内と息子は一足早く帰りたいということで、両津発12:40の船で新潟に渡り、新幹線で川越に帰ってしまった。私は、甥に頼まれて代々伝わる古文書などを読み聞かせ説明をしてあげた。
私の兄、つまり、甥の父親でも生きていれば、そうしたことは兄が詳しく知っているので説明をしたと思うが、突然の死であったため、甥には訳のわからない古文書となってしまったらしい。
16日、10:30過ぎに実家を出発し両津港に向かった。
義姉(甥の母親)は、心づくしにとジャガイモや玉ねぎ、米などを渡してくれた。
12:40発のカーフェリーで新潟港に着き、そのまま新潟亀田ICより高速道路に乗り、一路川越へと走った。川越に近くなるにつれ渋川ICあたりで渋滞、花園ICあたりでも渋滞があったが、19:45頃無事川越に帰ることができた。
今年、なぜ私が佐渡へ行ったかと言えば、すでに、実家は甥夫婦が継いでおり、その娘や孫たちがひしめくことや大伯父の出る幕ではないことは解っていたが、私の妻や息子に最後の佐渡観光をしてやりたかったのだ。
これで、実家で特別なことでもない限り、もう、私は佐渡へ行くこともないであろうと思う、少し淋しい気もするが、世代はどんどん新しくなっており、足が遠のくのも世のならいかもしれないと思った。
posted by bungetsu at 15:29|
日記
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